昭和の三大津浪体験記 チリ地震津浪

昭和35年5月24日。朝6時過ぎ、わたしは異様なざわめきに目覚めた。
 前夜、仲間との会合で夜遅くに帰宅したわたしは、季節はずれの暑さに寝つかれず、明方うとうと眠りかけたとたん、浜の方からの騒ぎである。湊町大沢の生まれであるわたしは、当時生家の裏手、浜から300メートルほどの場所に住んでいた。

 「津浪だー」の声に飛び起きたわたしは、白銀三島下の浜にある兄のところへ電話を入れたが、ツーツーという故障音がひびくばかり。ラジオのスイッチを押したが、のんびりしたアナウンサーの声が流れるてくるだけで、地震情報もないし、津浪警報もない。身支度してバス通りへ出てみたら、白銀方面から家財道具を満載した三輪トラックや、リヤカーが次々やってくる。一人をつかまえて状況を聞いたら、県道まで大波が押し寄せてみんな高台へ避難していると言う。

道端に散乱した魚凾や船の写真             道端には散乱した魚凾や船までもが

 わたしは兄の家の安否を確かめるため、人々の流れと逆行して自転車を走らせた。人々の話から南米沖で発生した大地震による津浪らしいことを知り、それではハワイなど全滅ではないかと、一瞬、そんな思いだった。
 大沢片平のバス停まできたら、道路に魚凾や板子・下駄などが散乱していて津浪の跡歴然。わたしは自転車を降り、波の引いたあとの水溜りをゴム長で歩いて浜へ下がった。

 波打際から100メートルほどの距離にある兄の家は見たところ建物はそのままで、何の傷みもなさそうと。ひと安心して近づいてみたら、これはなんと土台からそのまま波に持ち上げられたのだろう。元々の建ってある位置から20メートルほど移動して、南側にある隣の家の小高い花壇の上にそっくり鎮座している。

津波の前兆で潮が引いた岸壁の写真              津波の前兆で潮が引いた岸壁

 居合わせた兄からいろいろ聞いていたら、「また潮が引き出したぞー」と叫ぶ声。出てみるとなるほど渚の線がいつもの位置から300メートル以上も退いて、ふだんは見ることのない沈船防波堤の赤い船腹まで、まるで巨大なモンスターのように露わになっている。左手に遠くまでつづいて見える大沢や汐越の浜も同様に水のなくなった海底が、朝の光に輝き、日頃の3倍も広くなった浜が出現している。点々と見えている人影は、魚か貝でも拾っているのだろうか。一瞬、潮干狩の風景が連想される。

 「津浪が来たぞー」。叫び声に沖を見ると、沈船防波堤と北防波堤の間の海面が、白い波頭を立てて幾重にも盛り上がってくるのが分かる。
さあ逃げろーとばかり、一斉にその場をはなれて駆け出した。沖の方に見えていたとばかり思っていた津浪の先端が、意外に早くうしろに迫ってくる。懸命の遁走でやっとバス通りまで出て、そのまま人家の間を抜け、鉄道線路の土手へと駆け上がった。近くの消防屯所の望楼で乱打する半鐘の音が、なおさら緊迫感を高めてゆく。陸岸へ殺到した津浪は、速度がにぶりながらも次から次へと水嵩を増していく。

 眺めていると、水は沖から一様に押し寄せてくるのではなくて、右や左からも重なり合って寄せている。黒く湧き立つような海水は、建物やイカ干場をめぐりながら次第に勢いを失い、やがて末端が県道まで滲み出てようやく止まった。大波が引いてしまったのを見とどけてまた自転車を走らせ、昭和町の埋立地にある勤務先の冷凍工場へ急いだ。ドラム缶や木凾や雑多な器材が散らばり、水浸しになっている臨港道路を通り抜け、やっとの思いで職場へたどり着いたわたしは、集まってきた同僚や、前夜の当直勤務者の話から、津浪の先触れであるはずの地震が全くなかったこと。明方、会社の前の海から水がすっかり無くなったこと。6時頃の津浪が一番大きかったことなどを知った。

 八戸港の西岸壁に面して建っているわが社の門柱に、くっきり印された津浪の波高は、地上2メートルあまりのところにあった。会社構内は真黒な海水が溢れ、荒れ狂った跡が無残に刻みつけられ、異様な匂いが立ちこめられている。建物自体は堅牢な作りの冷蔵庫であるので、流失や破損は免れたが、機械室の浸水で電源ストップ。モーター使用不能で工場の運転は全面的に停まっている。
事務所のなかは目茶苦茶。金庫の中にまで黒い海水が滲んでいて、書類の整理に大童わ。呆然としているわたしの耳に、また潮が引き出したと騒ぐ声。前面の海がすっかり底をみせて、岸壁に係留していた船が次々に横倒しになり、船溜りには多くの艀がぺったりと海底に張りついている。

津波に飲み込まれた陸地の写真            津波に飲み込まれた陸地(右上は蕪島)

 と思う間もなく、蕪島と北防の間の波頭が高まり、見るみる目の前の海面がふくれ上がった。海水はたちまち岸壁から溢れ、道路を越え、会社構内に侵入してきた。わたしは冷蔵庫屋上に難を避け、眼下に荒れ狂う津浪の姿に目を凝らした。黒い水嵩が重なり、渦を巻き、流れてきたドラム缶がぶっつかり合い、丸太や伝馬船が木の葉のようにぐるぐる回っている。わたしが避難した建物のまわりは一面に泡立つ波に囲まれ、不安と孤立感が胸をしめつけてくる。

 ふと沖の方を見ると、西岸壁の先にある赤防波堤で逃げおくれたのか。高さ10メートルほどの標識灯にのぼり、手を振って助けを求めている人が見える。
陸の方では水産高校の高台に大勢の人々が黒山になって見えるが、誰もどうしようも出来ない。みんなはじめて目にする大津浪の暴威に、ただ息呑んで見守るばかりなのだ。
 と思う間に、意外に早く波が引き出した。すさまじい水勢である。あらゆるものを呑み込み、巻き込みながら、黒い奔流がこんどは海に向って突進してゆく。それは波の後退ではなく、まさしく波の突進である。津浪は寄せ波よりも、引き波の方が何倍も強力であり、破壊力をもっていることをわたしはまざまざと目撃しているのだった。

津波が押し寄せた浸水線の写真(三島ポンプ場)           津波が押し寄せた浸水線(三島ポンプ場)

 この日早朝3時すぎから夕刻まで、繰り返し八戸港を襲ったチリ地震津浪は10波におよび、漁船をはじめ漁港施設や陸上加工設備など、「みなと八戸」の機能に甚大な被害をもたらしたのだが、太平洋沿岸各地で観測された波高のなかで、八戸港内での検潮儀による5.8メートルが、全記録中での最高値であった。

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